記述と表現

 本を読んでいたら引っかかることがあったので、それをテーマに少し考えてみようと思う。それは、記述と表現の違いである。気になったのはこの注記だ。

 

ここでは、あえて「記述」という言い方を避けている。「私は憶えている」という表現は何も記述していないからだ。それは、表名もしくは主張であっても、記述ではない。

*1

 

行為と心

この注記のもとの文章(序章 相互行為分析のプログラム、第一節 行為の可能な記述)で語られている問題は、「行為の記述」がその行為の主体が実際に行っていることかどうかというもの。*2この注記で使用される記述と表現の違いについては、この章からは読み取れず、そのために記述と表現の違い、そして「何も記述していない」ということが何を意味するのかについて戸惑っていた。

 

 ヒントになりそうなのは、この段落の冒頭である。

いま、行為や活動の記述について、いくつか注釈してきた。同じことは心に関する表現を用いる場合についても言える。たとえば、「記憶」という表現がある。私は日本語を第一言語としている。ある時日本語を憶えたにちがいない。しかし、日本語を第一言語とする人間が、「自分は日本語を憶えている(記憶している)」と言うことは、おそらくない。

*3

 行為や活動においては「記述」が使用され、心に関するものについては「表現」が使用されるようだ。 

何かを記述する

 「何も記述していない」という言葉から読み取れるのは、それはとりあえず記述あるが、意味の地平においては、記述ではないということだ。

 

 ある活動を記述するために、ある活動が記述できるとはどういう条件に基づいているか考えてみよう。これは「説明可能性」と言われることもある。リンチにそって言えば、*4

  1. 社会的活動は、秩序だっている。
  2. 秩序だった社会的活動は、観察可能である。 
  3. 観察可能な秩序だった社会的活動は、日常的である。
  4. 日常的に観察可能な秩序だった社会的活動は、指向されている。*5
  5. 指向され日常的に観察可能な秩序だった社会的活動は、合理的である。
  6. 合理的で指向され日常的に観察可能な秩序だった社会的活動は、記述可能である。

となる。心の活動はそもそも観察可能ではない。秩序だってもいない。だから記述可能ではない。すなわちそれは記述ではない。単に「何も記述していない」という書き方にとらわれすぎたのかもしれない。

 

 

 

 

 

*1:西坂仰, 2008, 『分散する身体』勁草書房, p4

*2:実際に行っているとはどういうことか?

*3:同上

*4:マイケルリンチ, 水川喜文、中村和生訳 (2012) 『エスノメソドロジーと科学実践の社会学勁草書房.

*5:その社会的活動の参与者たちはお互いの行為の意味へと指向し、展開に寄与している。すなわち、なにかをしようとしていたり、お互いの行為を読み取ったりして、活動の展開に寄与している。