「近代化する視覚」

読書メモとして

Jonathan Crary, 榑沼 範久訳 1999 「近代化する視覚」, Hal Foster 編『視覚論』, 平凡社

 

カメラ・オブスクーラにもとづく視覚のモデルは、歴史的に限定されたものであり、19世紀前半には、この視覚を可能にする観察者(Spectator)の概念が崩壊した。

カメラ・オブスクーラにもとづく視覚のモデル

 カメラ・オブスクーラ以前の視覚モデルは、暗い部屋に穴を通して差し込んだ光が映す世界の倒立像との関係で語られる経験的なモデルであった。このモデルはカメラ・オブスクーラが構造的・光学的に構成した知と観察主体の編成によって書き換えられることになる。

 カメラ・オブスクーラは、外部の世界と内部の表象との対応を保証する装置であり、世界に対する絶対確実な視点を与える。ロックやデカルトにおいて精神は、知覚的感覚をその内部で観察する空間である。しかし人間の視覚には、不確実性が孕んでいる。カメラ・オブスクーラはその不確実性を排除し、「真理」を構成するものを観察者に与える装置であった。

 カメラ・オブスクーラは光を集めるその1点によって世界を構成する。しかし、人間の眼は単眼ではなく両眼である。両眼は1つの眼による像を総合することになる。この問題は、視覚的な世界を均質的・統一的で完全に了解可能な空間として構成するという目標の下、排除されることになる。身体の生理学的・解剖学的要素は感覚的証拠であり拒否される。

生産し、自律する身体の特権化と新たな知と権力の対象としての身体

 ゲーテによる主観的視覚というモデルは、濃密な生理学的身体が下地となっている。生理学的な身体は、観察主体の外にあるいかなる対象にも対応しない視覚経験を生み出す。たとえば科学者達によって盛んに研究された網膜残像がそれである。こうした研究によって視覚には生理学的プロセスと外的刺激とが分かちがたく混合しているかが明らかにされた。視覚を生産する身体の特権化は、カメラ・オブスクーラが前提する外部と内部の区別を融解させていった。視覚の対象が身体と共通の拡がりをもつならば、視覚は単一の内在平面上に構成され自律性をもつことになる。このような身体が成立したのは、生理学という領域のおかげである。そのころの生理学は、後の生理学のように学問分野として制度化されていなかったものの、様々な研究が個別に蓄積されていた。研究者にとって身体は探求し地図化し征服すべき対象であった。


 1820年台初頭には網膜残像が、眼の刺激反応を定量化する試みの一環として、科学の研究対象になった。これらの研究において定量的な視覚の概念が発達し、知覚と対象とを関係づける一連の要素が、抽象的で交換可能、非視覚的なものとなった。さらに生理学は、組織や機能におうじて身体を次々に分割・断片化していった。身体の断片化は、古典的な観察者との間に決定的な切断をもたらした。

見ることと視覚の区別

 ヨハネス・ミュラーによって唱えられた特殊神経エネルギー説は、この切断を明確に示している。彼は、異なる感覚の神経は生理学的に区別されることと同時に、多様な原因が同一の感覚を生じさせることをも示した。すなわち刺激と感覚との間に、ある根本的に恣意的な関係が記述される。観察者は見る行為とは何ら必然的な関係をもたない視覚をもって現れたのである。となると、「いまや光の経験は、世界を構成し理解するための核となるいかなる安定した参照点からも、いかなる機転や期限からも切り離されてしまった。」

 カメラ・オブスクーラによって想定された、対象・参照物の前提はここに崩され、この欠如をもとにあたらしい現実の世界が構成されることになる。