鈴木理策写真展『意識の流れ』

タイトルの「意識の流れ」は「見るという行為に身をゆだねると、とりとめのない記憶や様々な意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりのような感情をもたらすことがある」という鈴木自身の経験に基づいてつけられました。鈴木のまなざしを追体験すること、それによって私たちは純粋に「見ること」へと誘われるでしょう。*1

鈴木理策写真展 意識の流れ|東京オペラシティアートギャラリー

 

  「見ること」をテーマにしている写真家ということで、前情報もなしに飛び込んでみました。自主的に行った写真展って、初めてかもしれない。正直なところ、何が撮られているのか、何を見ているのか、よくわからなかった。ここで体験した「見ること」とは何なのだろう、そう考えながら思ったことを少し書いてみる。

「見ること」

 写真展に行き、作品を見る。この場にいることで、すでにある種の「見る」しかたを無意識的に方法論としてとってしまう。

「美術館」に「展示」された、著名な「アーティスト」の「作品」を「鑑賞」しているのであり、詰まるところ、これら括弧で括られた言葉の背後に潜む「制度」に雁字搦めになった自分が、同じように制度に縛られた他者と同じ見方をしているだけなのです。

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 だが、鈴木の作品群は、そうした私たちの見かた=読解を拒否することによって、私たちの見るという行為が「意識の流れ」のなかにあることを浮き彫りにする。

鈴木さんの写真からは構図にしてもシャッターチャンスにしても、意図的な要素が感じられません。たとえばフレーミングは、どのようにして決まるのですか。

レンズの画角を知っているので、どこまで入るかというのはあらかじめわかります。そういう意味ではフレーミングしているかもしれませんが、ああ、いい風景だな、とか、いい光だなと思ったら、だいたいの場所にカメラを置いています。そこからカメラを動かしたりすると、これを入れたな、などということが画面にあらわれてしまうので、動かさない。こねくりまわさない。写真的な構図を考えない。*2

「いい風景」はそのまま「いい風景」として再-現前――representation――され、私たちは意識的に「意識の流れ」を感じることになる。この体験は、一方で新鮮であり、他方では新鮮ではない。その視線は、鈴木の意識の流れのなかにあるのと同時に、私たちの意識の流れのなかで向いているものでもあるからだ。

 

構図、ナメ

 いくつかの印象的な「ナメ」がある作品がある。例えば、『13, 4-152』がそれだ。*3画面いっぱいに桜が咲き誇っている写真だ。この作品は妙な映し方をしている。ナメている殆ど画面を覆い隠すような桜の枝は、ピントが合っていない。ピントがあっているのは、その奥の枝である。したがって、ピントのあっている方の枝は、そこに注意が向けられているにもかかわらず、ピントの合っていない枝に邪魔されてしまう。せっかく鮮明に映っている桜の花びらが、ボケてしまっている桜に画面を奪われており、この構図は明らかに無駄がある。しかし、『13, 4-152』は、こうして構図に注目する見かたが、「作品」を見る実践に囚われてしまっているではないかと問いなおす。思い起こすべきは、私たちは、注意を向けた=ピントを合わせた対象が隠れていたとしても、それを目の前に引っ張りだしてこようとする前に、すでに見ているということ。たしかに、奥の枝に注意を向けているとき、その前にある枝はどうでもよくなっている。しかし、前にある枝もそこにあり、わたしたちの視界には入っているのではないか。だから、思わずそれをどかして、奥の枝を引っ張りだしてみたくなる。『13, 4-152』が映しているのはまさにこの瞬間だ。この作品に対峙し、鈴木の「意識の流れ」に視線を埋め込んでみると、思わず前の枝を手で抑え、あるいは背伸びをして、奥の枝を覗き込みたくなる。そして、はっとするのだ。私の「見ること」が、この写真をとった誰かの「意識の流れ」のなかで行われていることに。

*1:フライヤーより

*2:

鈴木理策写真展 意識の流れ[インタビュー]|東京オペラシティアートギャラリー

*3:メモっていないので、もしかしたら作品名は正しくないかもしれない。