ベイビーステップ——分析、実践、批判

放送してからすでに二ヶ月が経ったが、ベイビーステップ25話について。

 この回は、最終回ということもあってか、他の回に比べて(特に素晴らしかった回と比較しても)力の入れようがハンパない。丸尾の、「追い詰められたらあたらしいことを試して突破口を開く」プレイスタイルのように、それまでにない試みが凝縮されていて、画面に最終回らしいリッチさが溢れている。それは例えば、サーブを待つ選手が重心を低くして体をゆらゆらさせているといった芝居の部分であったり、キレのあるレイアウトであったり、倍率高めの高速ズームといったカメラワークに現れている。もちろん、常に冷静な難波江と少しハイになっている丸尾を対照させるようなカット割り-コンテワークもとても良くできている。要は演出だ。もちろん演出を支える作画も褒めなければいけない。丸尾が早めにネット前に詰めたいとき、ボールを返す瞬間体が地面から浮いている。こうした地味だけど負担になる芝居がふんだんに使われている。これらは確実に画面のリッチさに貢献している。

 「それまでにない試み」と述べた。僕の印象としてはこの試みはそのほとんどが成功しているように見える。一つ一つに照準していくのも楽しいと思うし、それはかなり面白いと思うのだけれども、今回は画作りではなく物語に関して思ったところ。ここから下は25話に限らない全体的な話になってしまった。

 ベイビーステップの試合では、基本的に6:4から7:3の割合で丸尾のモノローグによって話が進んで行く。つまり、彼の思考——相手の観察、分析、実践、反省の繰り返し——をもとにゲームの語りが進行していく。彼のプレイスタイルは、テニスの王子様風に言えば「データテニス」であり、試合の中で試行錯誤する丸尾の戦略的思考が、このアニメの一つのポイントになっているのは間違いない。しかし、ここで面白いのは、丸尾が、自分と同じデータテニスタイプで、より上位の選手=難波江に、戦略性が特に評価されていないことだ(ちなみに、難波は評価しているのは丸尾の精神力)。物語上では、丸尾は戦略的思考によって勝利をものにしていくために、僕たちにとって彼の戦略は「正解」として映る(し、結局勝っているんだからそれは確かに「正解」なのだろう)。しかし、難波江にとっては違う。丸尾の戦略性に対する評価はBであり、この評価からは、難波江にはより良い戦略が浮かんでいたことがうかがえる。つまり、丸尾の戦略は、主人公が勝利していく物語=ライフの上にあり、常に「正解」に近い位置を結果的に占めるにもかかわらず、そこにより良い戦略が存在したことが、別の物語によって語られている。ここで、「正解」であった戦略は、「より良い」戦略と並べられ、批判にさらされることになる。その批判を行うのは難波江だけなのか?いや、違う。難波は、あくまで高校レベルのトップであり、明らかにアレックスや池の下に位置付けられているし、丸尾の物語の中の一つの壁でしかない。実際、難波江は、丸尾に勝った次の試合であっさり負けてしまう。難波江は、自分だけが批判をできるような特権的位置を付与されているわけではない。むしろ、批判は常に丸尾以外のすべてに開かれている。

 ベイビーステップが面白いのは、丸尾の戦略的思考だけではない。丸尾のサクセスストーリーを可能にする戦略的思考が批判にさらされていること。唯一の正解のない問い=「いかにして勝つか」の前に、いくつもの答えの存在が示されていること。このスタンスが丸尾の成功とともに示されることによって、僕たちを丸尾のような戦略的思考を引き受けていくように導いてくれること。批判を受け入れ、「じゃあどうするか」、ここまで用意してくれる親切さ(?)が、このアニメの大きな魅力になっている。