甲鉄城のカバネリ

カバネリを見て思ったこと(感想です)。最終回において美馬がカバネリであったことが、金剛郭の破壊という行動に至った理由として示されていた。つまり、将軍によって戦場に置き去りにされ、おそらくそこでの戦いを通じてカバネリになった美馬は、屍のなかで孤立する恐怖が恒常化した状態(カバネリとしていつ屍のほうに振れてもおかしくない身体に犯されている恐怖)に置かれることで、そうした恐怖におびえることを恐怖におびえずに済んでいることへの怒りに変え、安寧をむさぼる金剛郭に恐怖を与えてやろうともくろんだのだろう。

これはもう12話ずっと繰り返されてきたモチーフで、それゆえに理解しやすいところだし、カバネリの、とくに後に屍になってしまう時限爆弾を抱えた生駒の物語としても理解できるようにはなっている。だが一方、カバネリであることが甲鉄城で受け入れられていったプロセスを何度も行ったうえで、さらに美馬のこういうエピソードを入れてくるのは、行動に至った理由として理解ができてしまうがゆえに、そのように示していくべきものではなかったように思える。ついでにいえば、薬を飲んだ後の生駒に、おれはカバネリだと言わせるのも、ちょっと筋が通っていないのではないかと思っている。

というのもOPでもさんざん、カバネリであることが人間でも屍でもないと示され続け、さらに生駒が受け入れられるいくつかのエピソードから、(ここがちょっと僕の解釈があやしいところ)皆に屍になっていく「途中」の存在ではないという理解を示しているようにおもわれた。生駒は、一話でもあったように屍である可能性におびえ、人間であるか屍であるのか判断がついていないのに、屍である前提のもと対処することに、それは臆病であるとして異議を唱えていた。この主張は、カバネリであることを受け入れさせる手立てとしても使われている。つまり、カバネリであることを、その屍でない状態を「まだ屍ではない」でなく、単に「どちらでもない」という風の理解へと変えていった過程として私はとらえていた。そうして生駒や無名が受け入れられていったんだと思っていた。

この恐怖と戦うべきことが一話から示され、カバネリというあり方がちがったかたちへと理解されいく過程を通じて克服させていたのにもかかわらず、最後にも美馬をつかってそれを再生産し、その問題系のなかで納めて行ってしまったこと、これが一番もったいない。違う何かを示してほしかったなーとおもう。一つのモチーフでやっていくほうがまとまりが良いのかもしれないが、一回なんらかのかたちで通過したものを蒸し返しているように思えたのが残念だったところ。

7/1 金剛郭と甲鉄城の表記を修正