メモ

WhiteAlbumを見直している。作中に出てくる下畑純訳『ブラウニング詩集』なる本が気になったので調べてみたが、どうも存在しないようで。岩波版のほうを後で読もう。 

788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/09(土) 23:21:01 id:C9n56iPe

ところで、正月休みに、アニメ『White Album』をDVDでぼんやり見直していたところ、一点だけ気がついたことがあった。タイトルにもある通り、
ロバート・ブラウニングへの言及について、である。

◆「第一頁」:チェスタトンとブラウニング
たとえば、EDでのクレジットには次の二行が見られる。
Respect for R. Browning
      G. K. Chesterton

すでに指摘されている通り、この英語文についてはまず、ブラウニングの評伝をチェスタトンが書いているという事実を確認する必要がある。
「第一頁」における澤倉美咲と七瀬彰(と藤井冬弥)の会話にも、「チェスタトン」とか、「評伝」とか、「ブラウン神父」といった言葉が見られるのは、
このあたりの英文学的常識に関連している。富士川義之編訳『対訳 ブラウニング詩集――イギリス詩人選(6)』(岩波文庫、2005)の「解説」が参考になる。

◆「第二十六頁」:二回の言及
これもすでに指摘されていることだが、ここにまとめておく。
最終回のオシマイにて藤井冬弥は「まったく世界はオーライさ、か」と呟くのだが、この台詞もまた、ブラウニングの詩から取られている。
“Pippa Passes” (「ピッパが通る」)の詩句 “All’s right with the world!” がその典拠である。しかし、この有名な行を「オーライさ」などと訳したのは、
White Album』がはじめてだろう。

また、最終回のサブタイトル「僕たちは一緒に座っている、一晩中、動くこともなく」もまた、この英国詩人への言及である。最も早い段階での
詩 “Porphyria’s Lover” からの引用だった。
And thus we sit together now,
And all night long we have not stirred

◆「第二頁」:赤黒装丁の詩集
「第二頁(第2話)」Bパートにて、緒方理奈は「電話番号 おしえて」というメモを、ある詩集に挟んで冬弥とひそかにやり取りをするが、このメモが
挟まれているのが『ブラウニング詩集』なる赤黒の装丁の本だった。「下畑鈍」なる人物が訳しているこの本は、おそらく実在しないものだろうが、
興味深いのは、理奈がこのメモを挟んだページがずばり、「ポーフィリアの恋人」のページであったということだろう。「第二頁」と「第二十六頁
(最終回)」とがここで共鳴していることになる。

「ポーフィリアの恋人」は「超」がつくほどの初期の作品らしく、というのも、岩波文庫『対訳』版では冒頭に掲げられている。しかしながら、
「理奈メモ」が挟まれた位置、つまり『White Album』においてこの詩(の和訳)が掲載されている位置は、詩集の中ほどとなっている。こうした
配置の不自然さにも関わらず、「第二頁」は「ポーフィリア」のページを理奈&冬弥に選ばせている。最終回との「共鳴」への準備だったというところだろう。

この「赤黒本」の訳文には活字が使用されており、かなり細かいのだが、読み取り可能である。アニメ版の邦訳を冒頭の数行だけ転載する。

今日は黄昏から雨模様で、
 ついでに陰鬱な風まで起きだして、
憎らしい楡の天辺を引っ掻いたり、
 湖面を騒々しく苛立たせたりさ。
 胸が塞がれる思いで、僕は聞いていたんだ。

原文は。
The rain set early in to-night,
The sullen wind was soon awake,
It tore the elm-tops down for spite,
And did its worst to vex the lake:
I listened with heart fit to break.

参考までに、富士川訳は。
今宵は早くから雨が降り出した、
 陰気な風もやがて目を覚まし、
憎々しげ楡の梢を引きちぎり、
 湖上の波をひどく騒がせた。
 悲痛な思いで、ぼくは聞き耳を立てた。

「ついでに」とか「~さ」とか「~いたんだ」とか、『WA』での訳は軽い。あるいは、個性的。この「軽さ」あるいは「個性」は、『White Album』の
各回のサブタイトルにも見られる「恥ずかしさ」に近いだろう。*1

 

 

マグリット展(国立新美術館)

六本木は国立新美術館で行われているマグリット展に行ってきました。

 

 今回、今まであまりしたことはなかったんですけど、作品のリストに一つずつコメントを書き入れながら鑑賞しました。一つ一つ真面目に考えて書き入れていったので、その分かなりの時間を過ごしたわけですが、今このコメントたちを読み直しているとその価値はあったと思います。体力面が問題なんですけど、今後も継続したいところです。

 

 マグリットに関しては人間の条件とレディメイドの花束、あとは帽子のおじさんシリーズくらいしか知らない状態で行きました。そんな状態でも、本当に面白かった。展示は5章に分割されていて、それぞれ

  1. 初期
  2. シュルレアリスム
  3. 最初の達成
  4. 戦時と戦後
  5. 回帰

という題がついていました。全く知らない状態でも最初の3章は本当に楽しくて、展示構成に感心したりすることもあったり。例えば、7-8-9-17-16-24の流れで見ていくと、「対称となっている穴があいた布」によって造形された(近代的な制度の中で)「紳士」が闊歩している様を喜劇と言える意味を自分なりに理解することができたりして。

 

 そんな感じで3章までが本当に楽しくへとへとになるまでじっと見ていたので、4章に入るころにはもう立つ体力がなくなっていました。しかも4章の作品群は当時でも評価されなかった迷作ぞろい。それまでと比べると特に理解するのが難しい作品が多く、4章については死にそうになりながら歩いていました。そして回帰する5章。疲労した眼をこじ開けてくるような興味深い作品群。1、2、3章の面白さを引き継いでいますが、5章の作品たちには特別な魅力があって、好きな作品というと5章の作品が多くなるのだろうなあと思いました。僕自身も79『光の帝国Ⅱ』、89『白紙委任状』が特に好きです。

 

 マグリットと「言葉とイメージ」。マグリットフーコーに影響を与えたということはよく言われます。例えば17『一夜の博物館』では、切り取られた手首、りんご、靴の影、例の布といった異なるカテゴリーに属する物を同じ棚に並べ、タブローの崩壊を狙っているのがわかります。ほかにもあちこちで影響を感じることができました。

 

 自分のコメントをみていたら書きたいことも出てきました。全部列挙するのも大変だし、まとめるのも面倒なので先ほどの7-8-11-6-9-17-16-24を載せてみます。

7『困難な航海』壁を取り払うと嵐がそこにあり、うちから見る眼。

8『彼は語らない』眼を見開き感情(肌)を持つ男。それに被さる仮面は感情もなく眼を閉じ、その世界には何もない

11『天才の顔』眼を閉じ感情もないのに彼には顔を貫く何かがある。穴の向こうには縦横無尽の感性がある。穴とは知のアレゴリーなのだ。

9『ハゲタカの公園』公園の木。野ざらしになった自然のなかで防音室に囲われる。電柱と公園の入り口を示す柵はハゲタカの皮肉である。

16『嵐の装い』7のようなイメージと例の布の模様。対称性に切り取られた人間と、対称性とは無縁な嵐。さらに逆から見るのを考えれば、人はハゲタカの公園のごとく、室内に植木されたハリボテだ。

などなど。

 

wywts.hateblo.jp

 からすれば、「常識的な方法」でしょうか。とにかくいい経験になりました。

 

 

 

 

 

 

映像の身体感覚

 メモ

映画を見る眼

映画を見る眼

 

映画の体温

 俳優には、ものとして映りながら、「存在」としても映る両義性がある。例えば、人物のロングショットでは映画の体温が下がってしまう――もののように映ってしまう――という。映画のフレーム作りは、芝居をものとして扱うようにはたらいたり、「存在」として扱うようにはたらいたりするのだ。

 

 俳優には映画において「存在」として映る方法が用意されているが、自然や風景にはない。自然を目の前にして身体に伝わるあの感覚は、映像の中にある風景や自然では――カメラによる遠近法では――得られないものだ。しかし、一瞬一瞬が絵画によって組み立てられるアニメーションは、抽象画が可能にするのと同じ原理で、その感覚を伝えることができるだろう。

 

カットの間

 カットとカットの間には隙間があるのです。…(中略)映像は遠くから見たものとしてのロング・ショットから、それをより近くで見たクローズ・アップへと一瞬にして切り替わります。あるいはものをその反対側から見ようとすれば、私たちはそのぐるりを回っていかなければなりません。でも映像は雄大な山の頂さえ、その反対側から見せてもくれます。

 ここで省略されたものは、そのために要する時間だけではありません。その間の私たちのモノローグ、沈黙したまま語られることのない私達の思いも、省かれているのです。[pp.35-36]

 

アメリカンスナイパー

電気柵のような映画

 この言葉は、劇中では戦争経験の比喩として使われた言葉であったが、この映画も、電気柵のような映画だったと言えよう。予告のあの緊張が二時間も続いた疲労から、悲劇的な結末のどこかで安心した自分を発見した。

 

 主人公であるクリスは、イラクから帰ってきても戦場の感覚が忘れられない。次第にアメリカの日常生活を蝕んでいく戦争のショック。戦場の狂気や死の恐怖より、飼い犬の首を締め付けようとしてしまう日常の方が恐ろしい。

 

 イラクで頭にドリルをあてられた光景。そのカットは「映されない」。映されないからこそ、工具として使われるドリルの音が、本来は頭に穴を開けるための道具なのだと主張してくる。ドリルの映像はそこに必要ない。音だけで描かれたことによって、別の部屋から聞こえてくるその音と共鳴し、僕を震え上がらせる。

 

 銃で遊ぶな。銃を使って強盗ごっこをする2人。もう、やめてくれ。いや、本気じゃないことはもちろん承知だが、なんかの拍子に引き金を引いてしまうとか、そんなことはありえないと、もちろんわかってはいるのだが、そんなふたりの微笑ましいコミュニケーションに気を張ってしまう自分がいる。ああ、やられた。クリスもそこから抜けだしていたのに、僕はまだ信用できていない。電気柵から手を離せていない…

鑑賞力を鍛える見方

 

現代アートの本当の見方  「見ること」が武器になる (Next Creator Book)

現代アートの本当の見方 「見ること」が武器になる (Next Creator Book)

 

 山木朝彦「鑑賞力を鍛える見方」pp.154-161より

よりアクティブに作品を「見る」ための、3つの方法

  1. 常識的な方法
  2. 批評的な方法
  3. クリエイティブな方法

常識的な方法

常識的な方法は、作品を凝視し、可能ならば、手で触れて、考えることです。これは、一般に、鑑賞者が知らず知らずのうちに身につけている惰性的なものの見方から離れるための方法です。

 「惰性」とは随分なものいいだが、アートとは日常的なものの見方から身を離すことなのだ。そして、「アートを見る」という段階においても、同じようにアートをみる日常的な方法の力学が働いてしまっている。

 「美術館」に「展示」された、著名な「アーティスト」の「作品」を「鑑賞」しているのであり、詰まるところ、これら括弧で括られた言葉の背後に潜む「制度」に雁字搦めになった自分が、同じように制度に縛られた他者と同じ見方をしているだけなのです。

 だから、「あらん限りの眼力で凝視してみる必要がある」。

批評的鑑賞力

 社会的・文化的コンテクストのなかに編み込まれてきた美術作品。だからこそ、このコンテクストに潜り込むことを意識的に行いながら、それらの制度から自分を引き離すことが求められる。

クリエイティブな方法 ――「擬似的にアーティストになってみること」

探求のためのプロセスとしては、そのアーティストはどうして、この作品を創ったのか、創りたくなったのか、創らざるをえなかったのかという初発の動機から始まり、どこで制作したのか、どうやって制作したのかというプロセスのこと、そして、どうやって運んで、なぜ、個々に展示したのかという創作後の展示の工夫までをリアルに想像してみるとよいでしょう。そして、アーティストや作品そのものの背景にある社会的コンテクストは何なのだろうかと、人物のプロフィールや思想性に共振する努力も求められます。

 

 

 

『絵画を見るということ』画集

 

絵画を見るということ―私の美術手帖から (NHKブックス)
 

 とてもおもしろい本だとおもう。書評はまたの機会に譲るとして、この本では取り上げられた絵画たちが、掲載されてなかったり、掲載されていてもNHKブックスであるためにモノクロであり明暗もわかりづらく、細かな部分が判別がつかなかったりする。そのせいで語られていることがわからなかったりする。これは非常にもったいないことだ。ということで、インターネットで取り上げられている画像を集めてメモ代わりにしよう。

 

 作品名はちゃんと原語で記しておこうと思ったが、メモだし英語だけで十分かな。掲載順で、無いものもあるが(モネの2つの「睡蓮」と八島正明「兄妹の渡る橋」)合計で38点ある。

 

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