インターステラー

 高評価を受けているクリストファー・ノーランの『インターステラ-』を観に行った。

 正直一回観ただけで映像作品について書くのはしんどいのだけど(余り記憶力が良くないので)、超おもしろくてパンフレットも買ってきてしまったくらいにはまったので、書きたいことだけ書き殴ってしまおうとおもう。(ネタバレ注意)

 

科学者の表現

 

 

「白人男性の科学者はたいていマッド」と評されているが、彼らは悪ではない。ただ、マッドなのだ。どう人類が生き残るかということに関してラディカルに突き詰められた――論理性の塊として――選択をしている。しかしその論理は、マン博士においては一人で可能性のない星に取り残される孤独に、ブランド教授にあっては娘とクーパーに、組織全体に嘘をつきプランAが不可能なことを隠した罪悪感に、「試される」。結果、二人とも打ち勝つことが出来なかった。マッドではあるが、何と人間臭いのだろう。最初に観た時は、マン博士の饒舌さと新たな可能性に私まで心が踊り、裏切られ、なぜこんなプロットを入れたんだとまで思うまでになっていたが、今思うと彼らの人間臭さも(彼らが裏切ることが人間臭さであるからこそ)良いと思える。

 

 地上、NASAに到達するまでのシーンで、クーパーの印象は以下のようなものだった。エンジニア気質らしい科学観をもっており、そのことに誇りを持っている。こどもをある程度独立した大人として接しており、そのため溺愛した様子や自らを大人としてこどもたちを支配・コントロールするような振る舞いではない。さらに、こどもをないがしろにして没頭してしまったりするように、個人として生きている(いや親だからといってないがしろにはしないと言っているわけではないが、あのバイナリを読み解く場面では僕の眼にはこう映ったし、そうやって描写することがその性質を表現している)。このように描くと(このような印象を受けると)、インターステラ―が父子の愛の物語といったら驚くかもしれない。しかし、そのことはぶつかり合わないどころか、むしろ仲良く共存している。

 

 はじめてまさに父親らしいシーンが出てくるのは、出発をきめ家に戻って来たところだ。マーフは自分を置いて旅立ってしまう父親に対し、怒り、拗ねている。クーパーは彼女に寄り添い、なんとか納得をさせ良い別れをしようと努めるものの時間が来て上手く行かないまま出発してしまう。クーパーが出発し車の中で以前マーフが隠れていたシーツを捲り、今回はマーフが来ていないことを追認し涙をこぼした一方で、マーフは家から飛び出し叫ぶ。しかし、車は遥か彼方を走っていた。この映画は、ほぼ三時間この構図で続くのだ。

 

 この後のクーパーの意思決定の根底にあるのは「一刻も早く第二の惑星を見つけ、一刻も早く地球に戻り、一刻も早くプランAを実行する」に尽きる。この方針を頑なに守ろうとする。失敗すると、涙をこぼす。チームメイトの判断の要素に愛を認めた時、クーパはそれを糾弾し否定する。彼にとっては、自分の意思決定方針における愛と、客観的判断における愛は厳密に区別されているのだ。この愛の物語は、このような論理を備え一線を引いた上で描かれている。

 

 すなわち、最初の印象は貫徹しているのだ。その論理、科学観と、愛は同居し、しかしそれらはきちんと分別されている。だからこそ、クーパーとマーフの努力が美しく見える。

 

 また、科学者の表現というとちょっと違うかもしれない。むしろ探求者、冒険者の表現に凄く惹かれた。マッドサイエンティストたちも含め、人類のことを考え、生存を目標し、研究を重ね、真理をそして生きることに走り続ける。彼らは冒険者であると同時に唯一の希望であり、可能性でもある。ああ、なんかいいなと。彼らは人類の代表として、自分の思いと向き合いながら戦いを続けている。結局こういう場面で頼りになるのって科学者なんだよナァ、と幼いころの数学を志した自分を思い出してしまったりなどした。

 

宇宙

2001年宇宙の旅』や、『コンタクト』がこの作品と並べられたりする。それらは、SF作品というだけでなく、その時の人類の宇宙を描いている。その延長に『インターステラ―』はある。そんなシーンは幾つもあった。例えば、最初のワームホールの中、ブラックホール、そして五次元の三次元化。どれも、これが2014年の宇宙なのかと思わせる質感を感じた。その時の宇宙とは、その時に描きうる宇宙であり、実際の宇宙とは異なるだろう。しかし、その描きうる限界は、映画の中で活躍するような科学者達、そして未来を描き続ける想像力をもったSF者たちによって、形作られたものだ。僕たちはその中で生きている。

 

仕掛け

 『インターステラ―』の全てを回収する、五次元空間に三次元をマッピングした無限空間。最初にNASAの場所を示した重力の謎は、クーパーとマーフが口を濁していた。重力が何だとか、だからってNASAの位置を示すわけ無いだろう、と思ってみていた。すると映画の後半でその謎が明らかになる。「宇宙人」、「彼ら」は未来の人類によって助けられたクーパーであったことも。

  

 砂埃の舞う地球、海の惑星、氷の惑星、プランAの嘘。地球と探索隊の絶望的な状況は、その「彼ら」によって描き変えられていく。先ほど、宇宙の限界を描いている人類の話をしたが、この作品では未来の人類によって未来が示され、それに助けられる形で、文字通りものの数分でパッと状況が一変する(人類全体としては地道に変化していくがクーパーにとっては一転、という変化だけれども)。3時間が終わってスタッフロールが流れている間、なんであんなに爽快な気分でいられたのだろうとおもうと、ただ単に映画がハッピーに終わったからではなく、人類愛という大きな形で示されたことに加えて、今の僕らにも可能性のある手法だったこともあるのかもしれない。