『HIV/エイズ研究におけるスティグマ概念・理論の変遷と現在的課題』を読んで

HIVエイズ研究におけるスティグマ概念・理論の変遷と現在的課題 大島 岳 https://www.jstage.jst.go.jp/article/sstj/13/0/13_96/_article/-char/ja/

読むまえの関心ごと

COVID-19感染者、あるいは感染者の多いエリアの人々、さらには渡来者旅行者帰省者、自粛要請に背いた(?)人々、以前は自粛要請の対象ではなかった行為によって感染してしまった人々……いま、彼らに対してとても厳しいまなざしが向けられているように思う。

  • エイズは感染力が弱くて、性行為以外の社会生活でうつることはないはず*1
  • COVID-19は症状が落ち着く、完治する…?けれども、エイズは生涯付き合っていく必要がある。

というように一緒にはできないものの、感染症に対するスティグマの特徴を知ること、 そのスティグマに対する対策を考えるには良いレッスンとなるのでは?そして私はどのように向き合えばよいのか?

読んだあと

本論文の内容をかんたんにまとめると、

  • スティグマは「信頼をひどく失わせる特質」だが、関係性を示す概念である
  • HIV陽性者はほとんどがスティグマを経験している
  • スティグマは他の要因と重層的に経験される
  • スティグマは疾病による偏見だけではなく、社会的不平等を強化しスティグマとともに構造化する
  • したがって、社会的排除をもたらすような「不当な取り扱い」となってしまうようなプロセスの分析が欠かせない
  • フォーマルな社会運動のほかに、リヴィング・ポリティクスと呼ばれるようなグラスルーツのスティグマ低減実践が存在し、日本でもその萌芽がみられる

特にポイントと感じたのは、疾病要因だけではなく、現存する社会構造と合わせて重層的にスティグマが構造化されることがある、という点。 たしかに国内だけを見ても高齢者-若者のような世代間対立、東京-地方のような地域間対立、中国人-日本人というような人種間の対立を伴った報道はよく見られた。 そういった既存の社会構造との連関で語られることに対してより敏感になる必要があるだろう。

低減実践については勉強になるところはすくなかった。

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甲鉄城のカバネリ

カバネリを見て思ったこと(感想です)。最終回において美馬がカバネリであったことが、金剛郭の破壊という行動に至った理由として示されていた。つまり、将軍によって戦場に置き去りにされ、おそらくそこでの戦いを通じてカバネリになった美馬は、屍のなかで孤立する恐怖が恒常化した状態(カバネリとしていつ屍のほうに振れてもおかしくない身体に犯されている恐怖)に置かれることで、そうした恐怖におびえることを恐怖におびえずに済んでいることへの怒りに変え、安寧をむさぼる金剛郭に恐怖を与えてやろうともくろんだのだろう。

これはもう12話ずっと繰り返されてきたモチーフで、それゆえに理解しやすいところだし、カバネリの、とくに後に屍になってしまう時限爆弾を抱えた生駒の物語としても理解できるようにはなっている。だが一方、カバネリであることが甲鉄城で受け入れられていったプロセスを何度も行ったうえで、さらに美馬のこういうエピソードを入れてくるのは、行動に至った理由として理解ができてしまうがゆえに、そのように示していくべきものではなかったように思える。ついでにいえば、薬を飲んだ後の生駒に、おれはカバネリだと言わせるのも、ちょっと筋が通っていないのではないかと思っている。

というのもOPでもさんざん、カバネリであることが人間でも屍でもないと示され続け、さらに生駒が受け入れられるいくつかのエピソードから、(ここがちょっと僕の解釈があやしいところ)皆に屍になっていく「途中」の存在ではないという理解を示しているようにおもわれた。生駒は、一話でもあったように屍である可能性におびえ、人間であるか屍であるのか判断がついていないのに、屍である前提のもと対処することに、それは臆病であるとして異議を唱えていた。この主張は、カバネリであることを受け入れさせる手立てとしても使われている。つまり、カバネリであることを、その屍でない状態を「まだ屍ではない」でなく、単に「どちらでもない」という風の理解へと変えていった過程として私はとらえていた。そうして生駒や無名が受け入れられていったんだと思っていた。

この恐怖と戦うべきことが一話から示され、カバネリというあり方がちがったかたちへと理解されいく過程を通じて克服させていたのにもかかわらず、最後にも美馬をつかってそれを再生産し、その問題系のなかで納めて行ってしまったこと、これが一番もったいない。違う何かを示してほしかったなーとおもう。一つのモチーフでやっていくほうがまとまりが良いのかもしれないが、一回なんらかのかたちで通過したものを蒸し返しているように思えたのが残念だったところ。

7/1 金剛郭と甲鉄城の表記を修正

響け!ユーフォニアム 再オーディションについてのはなし

ツイッターで書いたことのメモです。あとでまとまった文章にします。

中世古先輩があのオーディションで「納得」できたのは、一つには麗奈と自分の実力が明らかになったことがあるけど、あれが「みんな」を前にしての演奏だったということがあると思う。

久美子は「関西大会進出をかけた戦い」であることを中世古vs麗奈のオーディションのときには気づいていなかったんだ。

中川先輩1年しかやってなくて、久美子との力の差はそれなりにあると示されていたにもかかわらず、オーディションの朝、中川先輩の音をあすか先輩(久美子よりうまい)の音だと勘違いしているんだよね。ここは、「勘違い」するほど上手かった、実際、そうなのかもしれないしれないが

久美子はその音の出所が中川先輩だということに、その音に評価する以前から気がついていたんだろう、と思う

久美子-中川で、久美子が泣いたのは、ちょっと意外だったかも。これもまた、麗奈との夜のせいなのかもしれない

中川-久美子(+中一のときの久美子)と麗奈-かおりで比べるとオーディションは異なる焦点になっていて(オーディションの正当性という観点だけでなく)、前者では「結果を受け入れる」ことであった問題が後者では「諦めないか」選択する問題になっていく。

もちろんオーディションの正当性は問題になるんだけど、それは些末なこと。

ちっこい先輩は初めからどちらがうまいかを問題にしていないように見える。オーディションへの不信は評価が正しくないという点で問題にしていることは事実なんだけど、上手であるかどうか、で選ぶことを問題にしていたように思える。

結果発表のときのざわめきも、麗奈の方がかおり先輩よりも上手いと評価が下されたことについてではなく、そのような評価は抜きにして、麗奈がかおり先輩に優先されたという事実についての反応だったのでは

だから、オーディションへの不信は、特に麗奈にとっては上手いか否かという点において問題化されたのだが、ちっこい先輩にとっては、贔屓によって評価が曇ったと指摘することは、上手さだけでだけではなく、別の基準があったのではないかと問題化する手立てでもあった。

で、12話?のみんなの前でのオーディションは、高坂麗奈と中世古かおりの「上手さ」を競うコンテストでありながら、その基準をどちらに取るかという判断を迫る機会でもあった、のではないかな。「あきらめないで」と懇願することは、その基準をずらすことも可能なんじゃないかという提案でもあった

でも中世古先輩は、単に「上手さ」で争うことを決め、その基準において麗奈をとるべきだと進言したと。それは、何よりも、「全国優勝」が全員の中で統一されていたってことでもある(そして、それを中世古先輩は自分で強く感じていたし、全員の統一を、全員を前にしてみることができた)のだろう。

あすか先輩がドウデモイイって、問題を避けるの、徹底的に「良い音」を基準にしているからであって、その点がぶちょーからすればあすかを頼れない理由になっている。集中力を欠いていること、先生・メンバーへの不信といった問題に加え、「どちらがふさわしいか」という問題は、それだけでは解決しない

ぶちょーは「このままでは金賞はおろか、銀賞も危うい」と言っていて、この部活が「全国」を志向していることを示している。そして、この志向そのもには部員は当然のものとして受け入れている。

ちっちゃい先輩はオーディションの「結果」に不満があると言ったけど、オーディションの基準を問題にしていたはず。

その光景を前にして、そういう了解のある部員たちによる判断は、いうまでもなく、「上手さ」を基準として選考することであり、それを知っているからこそ、ちっちゃい先輩は限りなく薄い勝算にかける中世古先輩を直視することができないし、涙がこぼれてしまう。

その中で手を挙げる中世古先輩、かっこよすぎ。ちっちゃい先輩は知っていたからこそ直視できなかったのに、中世古先輩も同様に知っているにもかかわらず、ビシッと手を挙げ敢然と立ち向かう。中世古先輩はこうなってしまえば負けだと初めから気づいていて、自分のエゴと戦うために手を挙げたのだと思う

訂正:中世古先輩は勝ち負けは最初から問題にしてなかった。

考え直してみたけど、ここがターニングポイントだったとおもう。あのざわつきは、あるべきでないものだったhttps://t.co/8Z50IkoJ1Q

中川ー久美子の会話では、「偶然」上手いと評価されたということを久美子は示していて、それはやはり「上手さ」が絶対的な基準となってはいた。一方で、麗奈と中世古先輩については、すでに部内で評価としては決していたようにみえる。

にもかかわらず、あそこでざわめきが生じてしまったのは、部内において、「誰が演奏すべきか」という判断の基準についていまだ「上手さ」が絶対的なものではなかったせいであったと。

滝先生は、「良い音」は「聞けば」わかってしまうという確信の下で、みんなの前で「音」をきかせるわけだけど、滝先生はちょっと勘違いをしている。ざわめきの理由は、どちらが「良い音」を出せるかということではなく、ほかでもない「中世古先輩が演奏しないこと」にあったのだから

部員が拍手をできなかったのは、むろん、やりづらいというのはあるけれども、どちらがやるべきか、それを判断する「基準」について迷っていたってのも挙げられるだろうと思う。

DARKER THAN BLACK 黒の契約者、流星の双子

気になってはいたものの見る機会がなかったが、Netflixで1期2期ともに公開されていたので36話を一気に視聴した。約3クール分、オリジナルでこれだけ見せるアニメもそうない。

 

1期では1エピソードが前後編に分けられている。エピソード間はある程度独立しているが時系列順ではあり、物語が進むにつれ主人公ヘイの過去、ヘイが属する〈組織〉とは何か?何を目的に動いているのかといった謎が明らかになっていく。

 

言うまでもないことだが本作が面白いのは、物語が終わってもなおわからないことばかりの〈契約者〉という存在の描き方にある。エピソードはヘイが〈組織〉から受けた仕事を軸にして進む。その仕事は大抵〈契約者〉絡みであり、最終的にはヘイと敵の〈契約者〉の戦闘で終わる。〈契約者〉たちは超能力みたいなものを持っていて、能力を使った迫力のあるアクションシーンは本作の大きな魅力である。だが、この作品が描いているものは、〈契約者〉のドラマだ。それは明らかに「ヒューマンドラマ」といえるような質のもので、ここに面白さがあるのだ。というのも、作中において〈契約者〉たちは「〈人間〉ではない存在」として扱われているのである。〈人間〉ではない存在による「ヒューマンドラマ」として成り立ってしまっているのである。

 

〈契約者〉と〈人間〉を分かつもの、それは〈契約者〉の行動原理にある。彼らは感情や情動をもちあわせておらず、合理性だけで物事を判断し行動するとされている。のだが、本作では合理的ではない判断を行う〈契約者〉たちが物語の中心にいる。非合理的な選択肢を選ぶ者たち。感情的になってそのせいで死に至る〈契約者〉。〈人間〉によってひたすらに〈契約者〉と〈人間〉との境界が強調されるのは、その境界こそが〈人間〉の生き残る道であったことを示している。〈人間〉は〈人間〉でいるためにその境界にすがらなければいけなかった。一旦その境界が決壊してしまえば、そこに〈人間〉はいなくなってしまう。従ってやるべきことは、境界を維持しながら向こう側を消滅させること。一方〈契約者〉は、〈人間〉の攻撃から身を守らなければいけない。〈組織〉とEPRの戦いはこの境界を巡る攻防戦であった。

 

しかし、主人公ヘイはこの境界に立っている。内と外、その二分法に囚われない領域に立っている。ヘイが最終回で選んだのは、決してどちらも取る選択肢ではない。むしろ第三の道。この境界それ自体を拡散させること。象徴的に現れるゲートは、ただ内と外を分かつ役割だけを担わされていたのではなく、またそれ自身の内部にある広がりを物理的に指ししめす指標であった。

 

 

ベイビーステップ——分析、実践、批判

放送してからすでに二ヶ月が経ったが、ベイビーステップ25話について。

 この回は、最終回ということもあってか、他の回に比べて(特に素晴らしかった回と比較しても)力の入れようがハンパない。丸尾の、「追い詰められたらあたらしいことを試して突破口を開く」プレイスタイルのように、それまでにない試みが凝縮されていて、画面に最終回らしいリッチさが溢れている。それは例えば、サーブを待つ選手が重心を低くして体をゆらゆらさせているといった芝居の部分であったり、キレのあるレイアウトであったり、倍率高めの高速ズームといったカメラワークに現れている。もちろん、常に冷静な難波江と少しハイになっている丸尾を対照させるようなカット割り-コンテワークもとても良くできている。要は演出だ。もちろん演出を支える作画も褒めなければいけない。丸尾が早めにネット前に詰めたいとき、ボールを返す瞬間体が地面から浮いている。こうした地味だけど負担になる芝居がふんだんに使われている。これらは確実に画面のリッチさに貢献している。

 「それまでにない試み」と述べた。僕の印象としてはこの試みはそのほとんどが成功しているように見える。一つ一つに照準していくのも楽しいと思うし、それはかなり面白いと思うのだけれども、今回は画作りではなく物語に関して思ったところ。ここから下は25話に限らない全体的な話になってしまった。

 ベイビーステップの試合では、基本的に6:4から7:3の割合で丸尾のモノローグによって話が進んで行く。つまり、彼の思考——相手の観察、分析、実践、反省の繰り返し——をもとにゲームの語りが進行していく。彼のプレイスタイルは、テニスの王子様風に言えば「データテニス」であり、試合の中で試行錯誤する丸尾の戦略的思考が、このアニメの一つのポイントになっているのは間違いない。しかし、ここで面白いのは、丸尾が、自分と同じデータテニスタイプで、より上位の選手=難波江に、戦略性が特に評価されていないことだ(ちなみに、難波は評価しているのは丸尾の精神力)。物語上では、丸尾は戦略的思考によって勝利をものにしていくために、僕たちにとって彼の戦略は「正解」として映る(し、結局勝っているんだからそれは確かに「正解」なのだろう)。しかし、難波江にとっては違う。丸尾の戦略性に対する評価はBであり、この評価からは、難波江にはより良い戦略が浮かんでいたことがうかがえる。つまり、丸尾の戦略は、主人公が勝利していく物語=ライフの上にあり、常に「正解」に近い位置を結果的に占めるにもかかわらず、そこにより良い戦略が存在したことが、別の物語によって語られている。ここで、「正解」であった戦略は、「より良い」戦略と並べられ、批判にさらされることになる。その批判を行うのは難波江だけなのか?いや、違う。難波は、あくまで高校レベルのトップであり、明らかにアレックスや池の下に位置付けられているし、丸尾の物語の中の一つの壁でしかない。実際、難波江は、丸尾に勝った次の試合であっさり負けてしまう。難波江は、自分だけが批判をできるような特権的位置を付与されているわけではない。むしろ、批判は常に丸尾以外のすべてに開かれている。

 ベイビーステップが面白いのは、丸尾の戦略的思考だけではない。丸尾のサクセスストーリーを可能にする戦略的思考が批判にさらされていること。唯一の正解のない問い=「いかにして勝つか」の前に、いくつもの答えの存在が示されていること。このスタンスが丸尾の成功とともに示されることによって、僕たちを丸尾のような戦略的思考を引き受けていくように導いてくれること。批判を受け入れ、「じゃあどうするか」、ここまで用意してくれる親切さ(?)が、このアニメの大きな魅力になっている。

佐分利敏晴 2006「アニメーションと自然の原理」

in 佐々木正人編『アート/表現する身体』東京大学出版会 

のメモ

風のような眼に見えないものを、アニメーションはどのようにして視覚的に表現しており、あるいはそのようなものをどのようにして知覚することが可能なのか?

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鈴木理策写真展『意識の流れ』

タイトルの「意識の流れ」は「見るという行為に身をゆだねると、とりとめのない記憶や様々な意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりのような感情をもたらすことがある」という鈴木自身の経験に基づいてつけられました。鈴木のまなざしを追体験すること、それによって私たちは純粋に「見ること」へと誘われるでしょう。*1

鈴木理策写真展 意識の流れ|東京オペラシティアートギャラリー

 

  「見ること」をテーマにしている写真家ということで、前情報もなしに飛び込んでみました。自主的に行った写真展って、初めてかもしれない。正直なところ、何が撮られているのか、何を見ているのか、よくわからなかった。ここで体験した「見ること」とは何なのだろう、そう考えながら思ったことを少し書いてみる。

「見ること」

 写真展に行き、作品を見る。この場にいることで、すでにある種の「見る」しかたを無意識的に方法論としてとってしまう。

「美術館」に「展示」された、著名な「アーティスト」の「作品」を「鑑賞」しているのであり、詰まるところ、これら括弧で括られた言葉の背後に潜む「制度」に雁字搦めになった自分が、同じように制度に縛られた他者と同じ見方をしているだけなのです。

wywts.hateblo.jp 

 だが、鈴木の作品群は、そうした私たちの見かた=読解を拒否することによって、私たちの見るという行為が「意識の流れ」のなかにあることを浮き彫りにする。

鈴木さんの写真からは構図にしてもシャッターチャンスにしても、意図的な要素が感じられません。たとえばフレーミングは、どのようにして決まるのですか。

レンズの画角を知っているので、どこまで入るかというのはあらかじめわかります。そういう意味ではフレーミングしているかもしれませんが、ああ、いい風景だな、とか、いい光だなと思ったら、だいたいの場所にカメラを置いています。そこからカメラを動かしたりすると、これを入れたな、などということが画面にあらわれてしまうので、動かさない。こねくりまわさない。写真的な構図を考えない。*2

「いい風景」はそのまま「いい風景」として再-現前――representation――され、私たちは意識的に「意識の流れ」を感じることになる。この体験は、一方で新鮮であり、他方では新鮮ではない。その視線は、鈴木の意識の流れのなかにあるのと同時に、私たちの意識の流れのなかで向いているものでもあるからだ。

 

構図、ナメ

 いくつかの印象的な「ナメ」がある作品がある。例えば、『13, 4-152』がそれだ。*3画面いっぱいに桜が咲き誇っている写真だ。この作品は妙な映し方をしている。ナメている殆ど画面を覆い隠すような桜の枝は、ピントが合っていない。ピントがあっているのは、その奥の枝である。したがって、ピントのあっている方の枝は、そこに注意が向けられているにもかかわらず、ピントの合っていない枝に邪魔されてしまう。せっかく鮮明に映っている桜の花びらが、ボケてしまっている桜に画面を奪われており、この構図は明らかに無駄がある。しかし、『13, 4-152』は、こうして構図に注目する見かたが、「作品」を見る実践に囚われてしまっているではないかと問いなおす。思い起こすべきは、私たちは、注意を向けた=ピントを合わせた対象が隠れていたとしても、それを目の前に引っ張りだしてこようとする前に、すでに見ているということ。たしかに、奥の枝に注意を向けているとき、その前にある枝はどうでもよくなっている。しかし、前にある枝もそこにあり、わたしたちの視界には入っているのではないか。だから、思わずそれをどかして、奥の枝を引っ張りだしてみたくなる。『13, 4-152』が映しているのはまさにこの瞬間だ。この作品に対峙し、鈴木の「意識の流れ」に視線を埋め込んでみると、思わず前の枝を手で抑え、あるいは背伸びをして、奥の枝を覗き込みたくなる。そして、はっとするのだ。私の「見ること」が、この写真をとった誰かの「意識の流れ」のなかで行われていることに。

*1:フライヤーより

*2:

鈴木理策写真展 意識の流れ[インタビュー]|東京オペラシティアートギャラリー

*3:メモっていないので、もしかしたら作品名は正しくないかもしれない。